西上のすべて〜愛より恋よりお勉強〜
みなさん、こんにちは。
わたくし西上さんの半生日記。
いよいよ高校生の頃のお話に突入です。
私が高校生の頃はHYが流行っていて、自転車で帰る時にいつも大声で歌っていたけど皆さんの高校時代の思い出の曲はなんですか?

「ないかな、ないよね。
なんてね、思ってた。
まいったな、まいったな、
話すことに迷うな。」
〜西上のすべて〜
さぁ、いってみよう。
【西上桃世、15歳から17歳の記憶と記録】
ソフトテニス部で歯しか見えない生活を送り、エセ優等生を演じ切った私は、なんとか中学3年生の最後の通知表でオール5の成績を勝ち取り、地元の公立高校に推薦入学することができました。
偏差値レベルで言えば中のちょっと上、的な位置にあった高校でしたが、
文武両道を校訓に掲げており、ほどよく校則も緩く、地元の学生にも人気の高校だったと記憶しています。
突然ですが私は典型的な文系脳です。
数学、物理、化学、生物などの理系科目はいつも赤点ギリギリでした。
その代わり、英語や国語、社会科の科目はいつもほぼ満点レベルの成績で、とりわけ英語が大好きでした。
将来の夢を決めているわけではなかったけど、外国語学部に進み、外資系の企業か、航空会社で働きたいな、なんて漠然と考えていました。
部活動は、というと1年生の途中から引退するまで、野球部のマネージャーを務めました。
ソフトテニスの表舞台から急に裏方へ。
それには理由がありました。
私の高校には硬式テニス部しかなく、球を打つ力加減がソフトテニスとは全く違ったので、中学での経験が活かせそうにないと最初から眼中になかったのです。
そこで、なんとなく可愛い先輩が多く、自分もそんなカテゴリに入れるのではないかと勘違いしてバドミントン部に入部したのですが(笑)入部してすぐに肩を脱臼、トラウマになりスポーツをするのが怖くなってしまったのです。
その時、たまたま同じクラスの野球部男子に声をかけられて、野球部のマネージャーになったのでした。
某野球漫画のようなロマンスを期待していたものの、そんな機会はいっさい訪れず、
意識する以前にもはや男扱いされて過ごした3年間。(笑)
内部恋愛を諦めた私はサッカー部、テニス部などのキャプテンや活躍していた男子、
いわゆる「モテ男」に次々と恋をして、実ることなく片思いで終了。
追いかけるばかりの恋をしては、告白して撃沈、もしくは告白する前にキューピッドを頼まれる(辛い)など不遇の3年間を過ごしていたように思います。
ここにきても尚、恋愛よりも勉強が優先でした。
中学校から引き続きエセ優等生を続けていたので、とにかくテストでいい点を取らなきゃ、模試で全国10位以内に入らなきゃ、と日々怯えて勉強していました。
何に怯えていたか?
親の叱責に怯えていました。
親の言動からは私への絶大なる信頼と期待が寄せられているのが感じられました。
グサグサと。
刺さって心が穴だらけになるほど。
きつかった。
本当は勉強なんてしたくないし、みんなとゲームセンターで遊んでプリクラを撮って、ルーズソックス履いてお化粧したいし携帯電話を持ち歩きたい…
だけど、親が期待している。
親にダメだと怒られる。
不良だと言われる。
怒られるのが、怖い。
その思いが先行していつも真面目に勉強していました。そして、自分が本当にやりたいことや好きなものが見えなくなっていた。
「なんでもできる私」を演じるために、文化祭や体育祭の実行委員はすすんで引き受け、先生からも同級生からも好感度を得るために必死でした。
それと並行して勉強もできる「私」でいる必要があったため、テスト前は死ぬほど勉強し、テスト当日は毎回冷や汗をかいていたように思います。
最終的に第一志望の大学、しかも第一志望の学部に見事合格し、進学しました。
この時、同じ大学の別の学部にも受かっており、その学部内では成績上位に入ったため返済不要の奨学金が受けられる権利を得たのですが、憧れの学部で勉強したいと
奨学金を蹴って、おそらくギリギリで滑り込んだであろう外国語学部に進学。
この選択が、私のこれまでの人生の中で初めての「挫折」を経験するきっかけとなったのです。
波乱万丈の大学生活についてはまた次回。
実は大学に入ってから、遅咲きの不登校時代もありました。
来月の更新はいったんおやすみさせていただき、また年明けからスタートしたいと思います。
いつもありがとうございます◎
寒くなってきたのでお身体ご自愛くださいませ。
MOMOYO